これはTBSラジオで放送されたオリジナルドラマ『半沢直樹 敗れし者の物語』を文章に書き起こしたものです。
金融庁検査局 黒崎駿一主任検査官のその後
半沢直樹との対決に2度続けて敗れた黒崎駿一は今、名古屋に本店を構える尾張都市銀行の不正融資疑惑に絡む金融庁検査を指揮している。
東京中央銀行の業務統括部長だった岸川慎吾の娘・美咲(堀内敬子)と結婚して身を固めたが、甲高い声とオネエ言葉、股間をつかんで絞り上げる荒技にはいっそう磨きがかかり、今日も銀行関係者や部下たちを震え上がらせている。
そんなある日の朝。
「あなた、大丈夫?昨夜もうなされていたわよ。半沢、半沢って。またいつもの夢?」
黒崎駿一は美咲の言葉に静かに頷く。
「……ずっと考えているの。あいつには2度も出し抜かれた。この優秀なわたしが、なぜ……ってね。あんな夢を見たのは、昨日、人事の噂を聞いたからだわ。同期が監督局長になるって。出世コースよ」
不満顔で食事を始めた黒崎は、美咲が読んでいた雑誌の記事に目をとめた。心理学の特集。そこにはこう書かれてあった。
低い声の人間が上に立つ。ボスと呼ばれる人は、低い声でゆっくり話す。
「わたしに足りなかったのはコレよ!」
そう叫んでその場でバリトンボイスの発声練習を始める黒崎。
「あなた、渋くてすてき!」
調子を合わせておだてる美咲。似合いの夫婦のようだ。
その日から黒崎はボイストレーニングに通い、バリトンボイスを身につけた。するとこの声こそが、自分に足りなかったのだと悟り、美咲に説明した。
「高校時代、俺と成績を争っているライバルがいた。冷静沈着でミスをしない奴で、数学ではどうしても勝てなかった。その理由が今、分かった。声だ……。あいつは、声が低かったんだ」
「はあ?数学とはぜんぜん関係ないじゃない」
「いや。声の低さが、オレと奴の明暗を分けていたんだ」
「あなた。声が変わっただけでなく、オレって言ってるわよ。語尾もなんだかフツーに…………」
黒崎は静かに笑みを浮かべて言う。
「今の案件はすぐに片付く。そしたら休みを取って旅行にでも行こう。パリに行きたいって、言っていただろう?」
その頃、黒崎の部下である久野と島田(竹財 輝之助)は、尾張都市銀行天白支店長の桑原が利用しているレンタル倉庫を捜査する。しかしそこにあったのは古びたギターだけ。
「あの支店長が弾くんですかね?一応、聞いてみますか……」
二人は桑原に話を聞いたが「ギターがどうかしましたか?」と言われるとそれ以上の追求はできず、何の収穫もなく引き上げた。
それから数日後、そのギターを問題視した黒崎から呼び出された二人は、青い顔をして彼のもとに出向き、調べが甘かったことを謝罪した。
これで終わりだ。潰される。覚悟を決めた島田。
しかし、黒崎からは思いもよらない言葉が返ってきた。
「誰にだって、間違いはある。だからこそ人間だ。次に生かせばいい」
今まで聞いたことのない低い声。ゆったりとした口調。
島田は戸惑いながら頭を上げ、おそるおそる確認する。
「あの……潰すわよ、というのは……?」
「そんな下品なこと、オレがするわけないだろう。それよりも1週間後に立ち入り検査だ。皆でがんばろう」
黒崎は変わった。
言葉使いを変えたことで性格まで変わってしまったようで、執念深さはすっかり影を潜め、寛大な人間になった。
そして迎えた立ち入り検査当日。
「じゃ、名古屋まで行ってくる。日帰りだから夜までに戻るよ。この仕事が片付いたら、パリ旅行の計画をたてよう」
上機嫌で美咲に告げた黒崎。
その直後、黒崎は玄関先で倒れて病院へ搬送された。
意識を取り戻して精密検査を受けたが、心電図にも脳波にも異常はない。しかし、心身ともに衰弱しているのは誰の目にも明らかだった。
彼は原因不明のまま入院した。
「黒崎が倒れた?こんなに嬉しいニュースはないがや。あいつがおらんのなら、今日の立ち入り検査は何の心配もないな。あの資料も見ることはないわ」
支店長の桑原は電話で誰かとそう話し、ほくそ笑む。
島田の要望に応えて軽やかにフォークギターをつま弾き、桑原は顔を上げた。
「家に老いておくと妻が邪魔になるってうるさいもんで、あの倉庫に置いとるだけなんだわ。なんなら楽しい曲でも弾きましょか?」
黒崎を欠いた尾張都市銀行の調査は早々に行き詰まってしまった。
島田の報告を病院のベッドで聞いた黒崎は、何の収穫もなく引き上げてきた二人を責めることもなく、あのギターは関係なかったのかとつぶやく。そして、ぽつりと言った。
「全部、オレの勘違いだったようだ。この件はもう、だめだな……」
部下になって初めて弱音を吐く黒崎の姿を見た島田は、これまで受けてきた屈辱を忘れて言う。
「あなたが最も憎んでいる銀行の不正ですよ!?絶対に見逃さないのが黒崎さんじゃないですか!」
「……もう、疲れたよ。あとは任せる」
そう言って横になった黒崎に、島田はICレコーダーを預ける。
今日、桑原がギターを弾いた時、録音していたのだ。
しかし、黒崎がそれを聴くことはなかった。病状が日増しに悪くなっていったからだ。
大学病院の医師たちは黒崎の病状を巡ってカンファレンスが重ねたが、原因を突き止めることはできず、時間だけがむなしく過ぎていく。
やがて、黒崎の容体が急変。血圧と脈拍が急激に下がる。
駆けつけた主治医になんとか助けてほしいとすがる美咲。
「黒崎さん、聞こえますか!?」
医師の呼びかけに対して、黒崎がうめくように反応する。
「くう……くっそお……あなた……潰すわよッ!」
意識が混濁している。危険だと判断した医師は美咲に外に出るように言った。
しかし美咲はそれを拒否した。病気の原因に気づいたのだ。
「ああ。これです!これが本来のこの人なんです。キンキンと甲高い声で、女性のようないい回しで」
「は?」
「どうして気づかなかったのかしら!」
美咲は医師の制止を振り切り、瀕死の状態の黒崎の胸ぐらをつかんで激しく揺さぶる。
「あなた、起きなさいッ!ほら、あなたってば!!」
すると黒崎は意識を取り戻し、バリトンボイスで答えた。
「お、おう。美咲。なんだ」
「あなた。話し方をもとにもどしなさい」
「は?」
「もどすのよ!ほら、前のように高い声で!キンキン吠えて!」
「いや。オレは……」
「オレじゃないでしょ、わたしでしょ!」
美咲は医師が止めるのを聞かずに続ける。
「そうだ。あなた。悔しかった時のことを思い出すのよ」
「悔しかった……こと?」
「そうよ、あなたは悔しさの塊でしょ!?デートで巨大迷路に行ったとき、あなただけ出られなくて叫んでたじゃないの!」
「なつかしいなあ」
「悔しくならない?」
「ならないよ」
「じゃあ、高校時代のライバルに数学で負けた時は?」
「そんなこともあったなあ」
「もうッ!じゃあ、じゃあッ…………あ…………半沢直樹」
「半沢……?」
やられたらやり返す。倍返しだ!
半沢直樹の決めぜりふを思い出したその瞬間、黒崎の全身に力がよみがえった。
「半沢あーーーー!!」
血圧が戻ってきたと看護師が叫ぶが、医師はベッドから起き上がろうとする黒崎を懸命に止める。
すると黒崎は、は虫類のような目で彼を睨みつけて吠えた。
「なによあんた!潰すわよッ!!」
退院した黒崎は、島田が録音した桑原のギター演奏を再生。
「そういうことだったの!」と快哉の笑みを浮かべると、オネエ言葉で「仕事が終わったらパリよ」と美咲に告げ、名古屋へ向かった。
桑原支店長のもとを訪ねた黒田は、もう一度ギターを弾いてほしいと頼んだ。
「さっさとやってちょうだい!」
本来の姿を取り戻した黒崎を見て、島田と久野は手を取らんばかりに喜ぶ。
そして演奏が始まる。
「やっぱりね」
黒田は早々に演奏を止めさせ、久野にギターの中を確認するよう命じた。
久野はあっさりと見えないところに貼りつけられていたUSBメモリを見つけた。
「黒崎……どうして」
唇を噛む桑原の顔をなめ回すように見てから、黒崎は告げる。
「そのギター。マーティンのD28ね。それにしては音がくもり過ぎなのよ」
「そんなことまでわかるんですか」
感心する島田。
「自分のしゃべり方に敏感になったせいで、さらにわたしの聴覚は、グレードアップしたみたいねぇ」
久野がPCの画面に隠匿資料を表示させると、桑原は観念してがっくりと肩を落とす。
その姿をみて黒田は言った。
「さあ、説明してちょうだいッ!潰すわよッ!」
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